「みずうみ」

著者■T・シュトルム(高橋義孝訳)   発行所■新潮文庫    

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母の言葉に

 それから二、三日たったある日の夕刻、この時刻のならいで家じゅうの者は庭に面した大きな部屋に寄り集まっていた。扉はあけ放ってあった。陽はすでに湖のかなたの森の中に没していた。
 その日の午後、田舎にいる友人からラインハルトにあてて民謡が少し届いていた。それを披露してもらいたいと彼はせがまれた。彼は部屋に行って、丸めた原稿用紙を手にすぐ戻ってきた。何枚かの紙にきれいに書かれた 草稿らしい。
 テーブルを中央にみな席に着いた。ラインハルトの横がエリーザベトだった。「手あたり次第に読んでみようか、実は僕もまだ全部に眼を通していないから」 エリーザベトが丸めた紙を展(の)べひろげた。「譜だわ、これは。あなた歌ってくれるでしょ、ラインハル ト」
 そしてラインハルトは最初ティノールの舞踊歌を二つ三つ、時々低い声で面白い節をつけながら朗読した。一 座の気分が晴れやかになった。「でも、こんなきれいな歌を一体誰が作ったんでしょうね」とエリーザベトが言 った。  「そんなことはわかるじゃなないか、すぐに。床屋とか仕立屋の職人とかいった気さくな連中さ」とエーリヒ が言った。
 「作られたというようなものじゃないんだね、こういう歌というものは。ひとりでに生まれてきたのさ、空気の中からひとりでにね」とラインハルトも言った。「そうして国中を蜘蛛の糸のようにふわりふわりと四方八方 へ漂い歩いて、いたるところで同時に歌われる。こういう歌の中には僕たちの生活の本当の姿があるんだと思 う。だから実は僕たちがみんなで寄ってたかってこしらえた歌と言ってもいんだろうね」
 ラインハルトは別の一枚を取り上げた。「われ高き峰に立ちて・・・・・・」  「わたし、知ってるよ、その歌」とエリーザベトが口をはさんだ。「ちょっと最初を歌いだしてみてよ。わたし、合わせてみるわ」それから二人は、人間が案じだしたとは到底思われないほどに神秘的な、あのメロディーを歌った。ラインハルトのテノールに、エリーザベトのやや含み声のアルトが和した。  母親はその間も熱心な針仕事の手をやめない。エーリヒは手を組んで、神妙に耳を傾けている。歌が終った時 にラインハルトは黙って草稿紙をわきへ置いた。──湖の岸べからは、夕暮れの静けさの中を家畜の群れの鈴の 音が響いてくる。思わず聞き入ってしまうような音だった。すると澄みきった少年の歌声が流れてきた。

 われ高き峰に立ちて 深き谷間を見下ろしぬ──

 ラインハルトはほほえんだ。「ね、そうだろう。こんな風に口から口へ伝わって行くんだ」  「この辺じゃよくあれを歌うのよ」とエリーザベトが言う。  「そうだ」とエーリヒが応ずる。「あれは牛飼のカスパルだ。仔牛を追って帰るところだ」  みなはそれからまだ暫くの間、鈴の音が農作工場の建物の後ろへ消えてしまうまで聞き入っていた。「あれが 人みんなの心の底に眠っている歌なんだね」とラインハルトが言った。  「ああいう歌は森の奥に眠っているんだ。それを誰かが見つけだしたんだね」  彼はまた別の一枚の原稿を引っぱりだしたところだった。  闇の色は濃くなっていた。赤い夕映えの光が湖の彼岸の森の端に泡のように懸かっていた。ラインハルトが原 稿を拡げると、エリーザベトはその一方の端を手で押えた。そして一緒にのぞきこんだ。ラインハルトが読み始める。

母の言葉にしたがいて  
思わぬ人にとつぐ身の  
想いを懸けしかの人を  
とく忘れよと母は言う  
忘れかねたるかの人を  
うたてき母のこころかな  
かほどにわれを悲しむる  
いまは罪ともなりはてし  
この恋はもとよき恋  
せん術もなきわが身かな  
かつてうれしく誇りかに  
思いしもののいたずらに  
なりにし今日の夢ならば  
荒野のはてを行きゆきて  
さすらい人となりてまし。

 読んでいるうちにラインハルトは紙がかすかに震えるのを感じた。ラインハルトがこの歌を読み終えると、エ リーザベトはそっと椅子を後ろへずらして、黙って庭へ下りて行った。母親の眼がその後ろ姿を追った。エーリ ヒがついて行こうとしたが、母親は「外に用事があるんですよ」と言ってエーリヒをとめた。
 さて外の庭や湖では夕闇がいよいよ濃くなりまさっていた。蛾が唸りを立ててあけ放しになっているドアのあ たりを飛び過ぎる。部屋の中へは花や草木の香りが次第に強く流れ入ってくる。湖の方からは蛙の鳴き声が聞こ えてくるし、窓のつい向うでナイチンゲールが一羽、また庭の奥では別のが一羽、鳴いている。木々の梢の上高く月があった。ラインハルトは、エリーザベトのほっそりした姿が木下道(このしたみち)の間に消えたあたりをそれからも暫くは見つめていたが、原稿をまた巻き集めて、そこにいた人たちに挨拶して、家の中を抜けて湖岸へ下りて行った。
 森は静かに、その黒い陰を遠く湖上に投げていた。湖心のあたりにはおぼろげな月の光があった。時おり木々の間にかすかなざわめきが聞える。風ではない。夏の夜の吐息なのだ。ラインハルトは岸べ伝いに歩いて行く。 石を投げれば届きそうなところに白い睡蓮の花が一つ見える。急に、その花の近くへ行ってみたくなった。ライ ンハルトは服を脱ぎすてて、水に入った。深くはなかったが、尖った植物や石ころのために足が痛かった。かなり進んだが、泳ぐのに適した深さにならない。が、突然ぐっと深くなって、水が渦を巻いて水面下にもぐったラ インハルトの頭の上を覆った。もう一度水面に首を出すのには手間がかかった。それから手足を動かして暫くは円を描いて泳いだ。そうしてやっと自分がやってきた方角の見定めがついた。睡蓮の花もまた眼に入った。大き な光る葉の間にぽつりと寂しく花咲いている。──彼は花を目がけてゆっくり泳ぎ始めた。そして時々水中から腕を上へあげてみた。したたり落ちる水の滴に月影が宿っていた。けれども白い睡蓮の花と自分との間の距離は 依然として同じように思われた。が、岸べだけは次第に靄の中に輪郭をぼかしてゆく。それでも彼は泳ぐことを中止せず、相変わらず同一の方向をとって進んだ。ついに睡蓮に間近に来ることができた。白銀の花弁が月光の中にはっきり見定められた。同時に網か何かで体が巻かれるような気がした。ぬらぬらする茎が水底からのび上がって、彼の手足にからみついた。水は気味悪く黒々と拡がり、後ろの方では魚の撥ねる音がした。突然不気味で堪らなくなった。そこで蔓草を力いっぱいに降りちぎって、息を切らして岸べ目がけて泳ぎ戻った。岸べから 湖面を振返ると、睡蓮は最初と同じように、暗い水の面に遠く寂しく浮かんでいた。──ラインハルトは服を着 て、ゆっくりと家へ戻った。庭から部屋へ入って行くと、エーリヒと母親とが明日出かけるちょっとした商用旅 行の相談をしているところだった。

 「こんなに遅くどこへ行ってらっしゃったの」と母親に尋ねられた。  「僕ですか? 実は睡蓮のそばへ行ってみようと思ったのだけど、駄目でした」  「訳のわからないことを言う人だね、君は」とエーリヒが言った。「一体、君と睡蓮とはどんな関係があるん だ」

 「いや、昔、一度知っていたんだが。それもずいぶん昔のことになってしまった」

本文より抜粋 eye catcher home page 2000.11.1